この文は冷静か
日記、毎日書くのもねと少し緩めたらこのザマである。
最近は結構メンタルが元気だ、古文書を家で読めている。
しかし人生の進捗は本当に終わっている。今後どうやって生きよう。
今日も労働中に社会の常識を教えてもらった。みんなどこでこういうの教わるの。
あ!そういうのが新入社員研修なのか!
そういうレベルなのだ。
メンタルが上昇気味なのは声をたくさん出したからだろうか。
数日前に急にカラオケへいき、ストイックに数時間曲を入れ続けたりした。
楽しかったのでまたやろうかな。
この日記は脳の中に思考を貯めすぎると処理落ちをするから始めた(気がする)けど、声は出さないと消えていくものかもしれないと思った。
数時間歌いまくったら、すごく声が通るようになって気持ちがよかった。
気乗りしなくても定期的に声を出せる場所にはいくべきだな。
あと信頼度の高い人間にも会えた。手放しにとても良いと思える時間だった。
何が好きで何が楽しいのかを共有できることは勿論とても大事なことではあるけど、それ以上に何が気にくわないのか、どう生きづらいのかを全くのためらいなく話せるという相手は本当に貴重だと感じる。
話した具体的なことはほとんど覚えていないが、肉体的にも精神的にもとてもクリアである。
いや、本当に思考も声も全部でなくても表にだすべきなんだな。
こういう時間を過ごした後、今の条件がひとつでも崩れたらなくなってしまうのかもなと考えてしまうけど、なんとなく案外形を変えて残り続ける気がする。
もちろん時間や場所は今まで通りとはいかないけど、お互いに人間の根底が変わらない限りはぬるく交流していくんだろうな。していってくれ。
最近顕著に感じることがあるので所感を書いておく。
私自身の生きる思考がぶれたときに見直す用のメモである。
以下の考えは私の世界観、私のためだけの私の説明書だ。
近来、妙に世界が言葉とか文化に対して過度に敏感になっている気がする。
大枠に「不適切」とみなされる言葉や文化は、指摘され修正されて然るべきである場合が多い。
しかしこの「修正」は、当人だけが行うものでなく、その周辺もまたその様子を他人事として眺めるのではなく、「自分はどうだろう」と自己を見つめ直すことで初めて達成されるものだと思う。一人の認識が改まった/一人の認識を改めた、だけが果たして「修正」といえるのか。
人間という生物の多くが、意識的にも無意識的にも「他」を「評価」する。しかし、それと同時に自己についても「評価」を考えることのできる生物でもあるはずだ。
人の振り見て我が振り直せ、とはまさにその通りである。
あの「他」は過ちを犯した、それを非難する、では私自身は?と常に問いかけなければ真の意味での「適切」には至ることができないはずだ。
そしてその作業にはとても時間がかかる。走り続けながらではすることができない、一度立ち止まらなければならない。自己問答は心拍数が落ち着いていないと決して正しくは行えない。
SNSは洪水みたいなものだ。人生の多くの時間をその水に浸してきたからそれは理解している。しかし、洪水は一定ではない。この一年で水の色も量も勢いもずいぶん変わった。
そしてこの大洪水の中で人間はどれほど冷静でいられるのだろうか。
私はいま冷静でいるか?何かを見落としてはいないか?
いろいろと変わった理由として、人間の行動できる範囲が今まで外と内だったのが、後者のみになったからだろう。
できることも、することもその分減る。
だから「できること」に人間が精神を割く割合が増えた。
だから最近の言葉や文化への過敏な反応が増えているんじゃないかと考えている。
そして「不適切」のラインが日々引き直されまくって、「修正」の方法が過激になっている。
そして、この情報の洪水に流されている。
冷静でいられる方がむしろ不思議なのだろう。
日々鬱屈した精神をどこかで発散したいというごく当たり前の感情と、どれが自分に合うのかわからないのに濁流となって押し寄せてくる情報!
混乱するし、冷静かどうかの判断なんかとても難しい。
ここ最近は、もうかつてのTwitterではないなと感じる懐古厨の精神状態だ。
しかし、Twitterは日々小さな変化していって、私はそれとともに今まで歩んできた。そういう蓄積があるから今のTwitterもその延長線上だと感じる(にしても急激に色が変わったなあとは思わざるをえないが)。
そうであっても日々の情報の洪水にはおぼれ気味だ。
今の私はどんな状態だろう。視野がいつもより狭くなってたりはしないだろうか。
それなりの年数この洪水に暮らす私がそうなのだから、蓄積がない場合の新規に今の状態は酷だ。新規ユーザーがよりつかないソシャゲみたいなものだ、多分。
だから、私よ、どうか感情的になったら、落ち着くまで考えるのを放棄しないでくれ。
この状況で何かについて思考を止めてしまうのは私が私でなくなることにすら繋がってしまうかもしれない。情報の勢いは私なんか簡単に変えてしまう。
結論が出せなくても、それを探すことを続けてほしい。
他人が冷静かどうか、落ち着いて文字を打っているかなんか正直どうでもいい、そういう文章や画像をみて自分の感情が乱されてもいい。ただどうか、そのうえでも考えることを捨てることだけはしないでほしい。
それをやめて、自分との対話をやめた瞬間が私にとっての死だと私は確信している。
感情のままに取り乱してどうにかなってもいいのはaikoとシャニマスの情報が発表された時だけなのだ。
あったかすぎて驚く。
春の服なんか一着もないので困り果てている。