なんでもいれる箱

掃除ができないやつの家に一つはある。それです。

風つよい

前髪の概念が消える季節。

風に吹かれて帰宅すると髪の毛の質が終わるのでちょっと梳くととんでもない絡まり方をするのでショックを受ける。

今日は脱色して繰り返し色を入れまくってる、総額数万は使った部分の髪の毛がごそっと切れた。3000円分くらいか。こんなこと考えてしまうのすごいケチっぽくてやだな。いずれ全部消えるのに。

とはいえ切れてしまうのは問題だ。夏場と同じヘアケアでは足りないということだよな。

 

そもそも私の身体、総じて「冬」という存在に対して弱い気がする。

髪の毛も肌も乾燥しやすいし、体を動かすのがすごく難しくなる。寒くておっくうとかではなく(それも大いにあるんだけど)体が動きづらくなるんだよな、オイルが足りてない金属の動きの悪さのそれ。

あとメンタルもコントロールが難しくなるのは大体冬な気がする。軽く落ちこむことが増えて回復も思うようにできなくなるというか、時間が夏の倍くらいいる。意欲もおちこんでしまうので生きる難易度が上がる。久しぶりにやったゲーム、やらなくなる前にやたらやりこんだせいでよけい難しく感じるのと似ている。

 

生きづらいことを認識してから、本当に生きるのがだるくなってきた。

別に死にたいわけじゃないんだけど、生への頓着がなくなってる。

ただこれはネガティブなものではないと思ってて、むしろ生きることに必死にしがみつく体力を使わないともいえるので、ある意味で生存力はあるとも思っている。

私はずるずると長く生きるんだろうな、と思う。

ただし明日命が尽きてもまあそんなものだろうとも思っている。

矛盾のようにも思えるけど、生きることの逆が死ぬでは決してないはずだし、その前提からこの二つは背反ではなく並列の関係にあるものととらえている。

死を選ぶのは今ではないと思ってるけど、死が私を選ぶのは今かもしれない。それに抗おうとあまり思ってないんだろうな。

思えば思春期の頃から漠然とこういうスタンスで生きてきた気がする。

だから未来を考えることが本当に苦手。今しか考えられない。

人生設計とかできたためしないしなんならあんまり必要性を感じてない。貯金ができないのもそういうことだと思う。あと勢いで色々やっちゃうせいで後々の自分がしりぬぐいしたりする。これは本当にかなりある。

こういうのを「刹那主義」というらしくて、メリットもデメリットもひっくるめて自分はそういう人間だと認識している。

 

この言葉、高校の時に聞いてすごく感銘を受けたんだよな。今思い出した。

古典か現代文の授業中、教材について意見を出す時間があって、何の話をしていたのか全然覚えていないんだけど、先生からは何か将来とか未来とかそういう答えを出すような課題を提示された。

その時に私はたぶん「今」しか考えられないとか、とにかく「今」に関することを述べた。未来のことは今はわからんので今のことだけ考えて生きるとかそんなこといったのかな。文字にすると恥ずかしいな。

その時は他と違うことを言いたかったのかもしれないし、ほんとうにそれしか言えなかったのかもしれない。その両方かもしれない。

とにかくその場で出た意見の中でははずれたことを言った記憶がある。

その時に先生が「あなたは刹那主義的だね」と言ってくれて、その意見を受け止めてくれたんだよな。否定も肯定もせず、ただその考えを率直に受け入れてくれた。

それがすごくうれしかったし、その「刹那主義」という文字が私の心にハマる言葉だった。自分自身のわからなかった部分を理解できた瞬間だった。

 

髪の毛がちぎれた話から生死の認識、高校懐古までいったな。こんな連想ゲームなかなかないぞ。

文字を書くのに慣れるために書き始めたので特にテーマを設けず、現状頭に浮かんだことを出力しているだけなんだけど、結構出てくるな。

 

 

もともとアウトプットがかなり苦手な自覚はある。

思えば、今まで自主的に文字に自分の考えや知識、もしくは日記的な記録とかを何かしらの形で放出する習慣がなかった気がする。課題が出たらそれを最低限やるだけで生きてきた(ほんとになんで院にいるんだろうな)。

同時にアウトプットする素材、経験や知識など、が乏しいとも思っている。

知識に関しては本当に少ないので今後頑張るにして、経験は案外そうでもない気がしてきた。幼いころに世界中を旅したとか、そういう派手さはないけど、20年ちょっとの人生で色んなものを学んだし、色んな感情を知ったとは思っている。

だから、経験が「ない」のではなく「自分の血肉となっていない」がより正確かもしれないと思った。

たとえば、今日文字を打つ中で突然高校の記憶が呼び起こされた。アウトプットをすることで、もう消えていたと思ったものが私の中にとどまっていたことが判明した。

つまり、アウトプットという作業はインプットしたものを書く作業であると同時に、インプットしたものを呼び覚ますことができる手段でもあるといえるのではないか。

何が言いたいかというと、「とりあえず書いてみる」という作業は有効であるということ。

私は「知識が身になっていないからレポートとか論文が書けんのだわ」という思考になりがちであり、そのまま締め切り前夜ということは日常茶飯事だ。

もちろん知識を得て、それを咀嚼して文章を書くことは正しい。そういう人間になりたい。

ただ、本などで表面的に知った知識でもいいから、それをすぐにアウトプットすることによって更に深い理解につながったり、連想ゲームの如く思いつきもしなかったことが浮かび上がったりすることはあるのではないだろうか。

とにかく手を動かすことは結構大事かもしれない。

頭で考えたことは目に見えない。だから自分が視覚的に認識できる形によくわからない状態でもいいからとりあえず直す。

これ自体が「咀嚼」につながるのではないか?

仮説ではあるが、今日の事例からこんなことを思った。

とりあえずなんか書いて文章書く作業に慣れようという気持ちで始めた日課だが、いい気づきを得た。

この気づきを得たのもアウトプットのおかげといえる。

「とりあえず思ったこと、考えたことを書いてみる」

ブログだけでなく、あらゆる場面で実践してみたい。

多分これを続けることができればアウトプットが得意になると思うし、アウトプットの引き出しを開けるスピードも上がるはずだ。一年後の私きっとすごいことになるぞ。

 

天気の話。

冒頭に述べたように風が強くとにかく寒い。

体が冷えると精神も落ちる。

とりあえず明日はマフラーを巻くとかしたいと思う。